3.災害の記録 |
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昔の黒部川の本流は、古黒部の地名に残る今日の小川下流(入善町と朝日町)の境あたりに出ていたと思われる。
それから長い年月に間、洪水のたびに、次第に西へと移動していったものと思われる。
(入善側の方が砂礫層が深い)
この移動により各村落に災害をもたらした。 |
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(1) |
黒部川の古代における水害の記録は乏しいが、口碑によれば、
806年(平安時代初期、大同元年)8月4日、越中の諸川氾濫と伝えられるのが最も古いらしい。 |
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(2) |
938年(天慶元年)、黒部川の洪水によって田畑が大きな損害をこうむり、若栗村に鎮座する八社の神殿のうち三社が流失したと、若野神社緑起は伝える。
そのころの口碑では、「黒部川が暴漲(ぼうちょう)し五社の神のを大越に移せしより御越ち云いしを、のちに大越と誤書せり」と伝えている。 |
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(3) |
1326年〜28年鎌倉時代のすえ、石田村の話であるが、黒部川からの水が全村の良田は石田と化したと言う。 |
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(4) |
1573年〜91年(天正年間)、上杉謙信が越中に侵入しようとして、黒部川の出水に妨げられた、との記録がある。 |
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(5) |
1624年〜43年(寛永年間)、には大洪水により浦山村を分断し草高が2/3に減った。(分断された村は現在の浦山新村で入善町になっている) |
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(6) |
1688年〜1703年(元禄年間)、今の黒部右岸にあった村々が直撃され、荻生村は分断された
それ以前は青木村までが一つの大きな村であった。今日、この川の両岸に五郎八の集落名が残っているのは、その名残だろう。 |
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(7) |
1704年〜10年(宝永年間)、入善一帯に被害があった。
1711年〜15年には、浦山、若栗、荻生の数村をつらぬいて奔流、そのため一宿新、若栗新が分断した |
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